?
ヒツジは紀元前50世紀、人類が農耕を始めた頃、西アジアの乾燥地帯で牛や馬よりも早く家畜化されたそうです。 それ以来、ヒツジの肉、乳、毛、皮を利用することで人間は文化を紡いできました。
ヒツジは乾燥地帯の少ない草を利用するため、季節繁殖という手段を獲得しました。 まだ草の生えない早春に子供を産み、草が伸び始めるのに合わせて母羊の乳で育った仔羊が離乳し草を食むようになります。 そして、人間には消化できない植物の繊維を4つの胃袋で反芻しながら、肉や毛に変えてくれます。
ヒツジの季節繁殖という性質は21世紀になっても受け継がれ、仔羊肉が季節とともに変化する所以でもあります。
未の刻、未の方角があって、十二支にちゃっかり入っているヒツジ。
でもヒツジが身近にいない日本人にとって、龍よりも実体を伴わない概念だったようです。
日本にやってきたヒツジの記録 〜 山根章弘著『羊毛文化物語』より | ||
---|---|---|
599年 | 『日本書紀』 | 秋九月、百済、駱駝(らくだ)一疋、驢(うさぎうま)一疋、羊二頭、白雉一隻を貢る。 (推古天皇7年) |
820年 | 『日本紀略』 | 五月、新羅人李長行ら、羖れき羊二、白羊四、山羊四一、鵞二を進む。 (嵯峨天皇弘仁11年) |
935年 | 『日本紀略』 | 承平五年九月、大唐呉越州の人蒋烝勲が羊を献じた。 |
1171年 | 『百練抄』 | 承安元年七月、入道相国、羊五頭、麝一頭を院に進む。 |
とても庶民の口には入らない、珍獣の一種のようです。
その後、本格的にヒツジが導入されるのは、明治政府によって軍服を生産するために。そして、第二次世界大戦敗戦後は、衣食資源不足を補うため、各家庭で数頭を飼養するようになりましたが、昭和30年代の貿易自由化(関税廃止)とともに姿を消していったようです。
現在、ヒツジは日本国内に絶滅危惧種ていどの頭数しかいません。
理由は、羊肉や羊毛は日本国産の半額以下で外国産を手に入れることができ、日本国内で生産することが経済的に非効率だから。
日本国内の他の農産物と違い、政策で保護されず、関税が廃止され、海外との自由競争にさらされた結果です。政策と市場とが日本のヒツジを淘汰してきたとも言えるでしょう。
政策の庇護下になく自由競争にさらされる、というのは農業以外の事業なら、まあ、フツーのこと。
人間にとって根源的に必要な、衣食を満たしてくれるヒツジ。でも、生業として、経済活動のために飼うことがとても愚かなことになってしまったヒツジ。
『ゴーシュ羊牧場』ではそんなヒツジたちとともに、豊かに穏やかに暮らす方法と、未来につながる生活の在り方とを模索します。
多くの作曲家が作曲している、死者のためのミサ曲。
大御所はモーツァルト、フォーレ、ヴェルディ。
「入祭唱」、「キリエ」など数曲で構成され、後半に出てくるのが「神の子羊(アニュス・デイ[Agnus Dei])」
「Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: dona eis requiem sempiternam.
(この世の罪を取り除く神の小羊よ彼らに永久の安息をお与えください)」と歌われる。
歌詞の中のいたるところに「ヒツジ」と「羊飼い」登場。
103: | 牧人ヒツジを守れるその宵~ |
106: | ヒツジを守る野辺の牧人~ |
119: | ヒツジは眠れり草の床に~ |
213: | 人足絶えたる荒野のはらにも、迷えるヒツジを子のごと尋ぬるその声~ |
Ⅱ-49: | ヒツジを飼うものらに清き使いは告げぬ~ |
Ⅱ-56: | 主はその群れをやしないたもぅ、すべてのヒツジ呼びあつめて~ |
ほか、多数。
バッハとヒツジ、とても贅沢な組み合わせ。
とても安らかな曲で、ヒツジを数えるまでもなく、おやすみなさい。。。
「Pastoral」が『田園』と訳される交響曲第6番。「Pasture[放牧地、牧草地]」の形容詞形と考えると、本意は『牧歌的』または『牧羊詩』。
小林研一郎先生が、私が参加していたアマチュアのオーケストラを指導されたとき、最初のフェルマータで指揮棒を下ろして、
「作曲者は『田舎に着いた時の愉快な気持ち』という説明を付けています。田舎に着いたら丘があって、その向こうにも丘があって、さらにその向こうにもずーっと丘が続いている、そんな風景を想像してください。」と仰ったのが印象的だった。
そこで草を食むヒツジの姿まで想起できれば、もう少しマシな演奏ができたかも。
ところで、ベートーヴェンは「田んぼ」を見たことがあるのだろうか。
ドビュッシーが愛娘シュシュに贈った組曲「子供の領分」の中の第5曲。
シュシュが愛用していた、羊飼いを描いたボール紙製の玩具に着想を得たとか。
わずか31小節の小さなピアノ曲。
![]() |